「真実の心」 その@


 今から一つの例え話をしましょう。なに、この話はあくまで例え。この話を真に受けないで頂きたい。
 とある拳銃で一人の人間が死にました。仮のその人の名前をAとしましょう。そして、撃った奴をB。そこに拳銃を置いた者をCと名付けましょう。
 Bは、Aが心の底から憎いわけではなかった。しかし、快くは思っていなかった。そんな時、目の前に銃が落ちていた。だから、殺してしまった。そして、Cは悪気はあったものの、まさか殺してしまうとは思わなかった。喧嘩する程度だと思っていたのです。
 ここで一つ、あなたに問いたい。本当に悪いのは一体誰だと思いますか? 撃った奴なのか、それとも、そこに拳銃を置いた奴が悪いのか‥‥。
 私はこの謎かけに答えは無いと思っています。どちらも悪かったし、どちらも悪くなかった。仮にどちらかが欠けたとしたら、男は死ななかった。でも、だとしたらどちらが欠けるべきだったのか。そして、本当に悪いのはどちらなのか‥‥。
 この問い、あなたに分かりますか? この話は、そんな選択肢を迫られた一人の男の話です。


 「‥‥‥どこだ? ここは」
 誠は見知らぬバーのカウンター席に腰掛けていた。目の前にはまだ手のつけられていないウィスキーが一杯。
 誠は辺りを見回した。古めかしいバーだ。狭く、何もかもが木製で、かかっている音楽はまったく流行っていない昔のジャズだ。室内には二人の男がいた。一人はバーテン。まだ若い男で、髪の毛を後ろで束ねている。男は誠を見ると小さく会釈をした。
 そして、もう一人が誠のすぐ横に腰掛けている男だった。年は五十くらいだろうか。白い髭を生やし、綺麗なタキシードを着込み、美味しそうにカルーアミルクを飲んでいる。
「あんた、誰だ?」
 誠はその男に訊ねる。タキシードの男は誠の方を見ると、にっこりと笑いかけた。
「お目覚めになりましたか、沢田誠(さわだ まこと)さん。私の名はジャックと言います。以後、お見知り置きを」
「‥‥はあ」
 まず最初に思った事は、何故この男は俺の名前を知っているのだろう、という事だった。しかし、ジャックと名乗る男はその事については何も答えず、言葉を続けた。
「ところで誠さん。あなた、自分の身に起こった事を覚えていますか?」
「えっ?」
「あなた、死んだんですよ。奥さんのすみれさんに刺されて。覚えてませんか?」
「‥‥えっ? ‥‥あっ」
 突然何を言うんだ、と思った。しかし、ゆっくりと考えてみると、段々とその記憶が戻ってきた。
 自分は妻であるすみれに刺されたのだ。理由は至極簡単。すみれの妹、つまり義理の妹である向日葵(ひまわり)との不倫がバレた為だ。会社から帰ってきて、食事をしていると突然後ろからブスリと刺された。
「あれが致命傷でしてね。あなたは病院に運ばれる前に死亡したんですよ。まあ、それもそうでしょうね。近くにいたのが奥さんだけだったんですからね。奥さんはあなたが死んだのを見届けてから病院に電話したのですよ」
「‥‥何であんたがそんな事知ってるんだ? じゃあ、ここはどこなんだ?」
 誠の頭は急速に混乱していく。俺が死んだ? 確かに刺されたまでの記憶はある。でも、それからどうなったのかさっぱり分からない。ここはどこだ? 死んだのにどうしてこんなバーにいるんだ? それにこいつは誰だ? 自分はこんな奴知らないぞ。誠の頭はパンク寸前になっていた。
 そんな誠の肩を、ジャックはポンポンと叩く。
「そんなに混乱しないでください。これからゆっくりと説明しますから。まず、私の事ですが、私はまあ簡単に言えば死神みたいなものです。この世とあの世を行き来する者です。そして、ここは三途の川です。想像している所と違いましたか? それもそうでしょう。私はあういう何も無い所が嫌いでしてね。こうやってバーを作って、そこで死者を待っているんです」
 死神? 三途の川? 何を言っているんだ、こいつは。こいつの頭の方こそどうにかしているんじゃないのか? 
「まだよく情況が呑み込めていないようですね。まあ、いきなり言われても理解出来ませんよね。まあまあ、一杯飲んで落ち着いてください。細かな話はゆっくりとしましょう。時間はまだまだたくさんあるのですから」
 そう言って、ジャックは誠の前に差し出されたウィスキーを手にして、誠の手を渡した。


 誠が事を理解するには、少し時間がかかった。その間、普段飲まない酒を、三杯も飲んだ。若いバーテンは何も言わずにウィスキーを足してくれた。
「要するに、俺はすみれに刺されて死んで、三途の川まで来て、そしてそこでお前という死神と今話をしている、と。そういう事だな?」
「その通りです。やっと分かってもらえましたか」
「何だか、信じられない話だな」
「でも、刺されたという記憶までははっきりしているでしょう? 刺されたのに病院にいない、と考えると、この情況も現実味を帯びてくるんじゃないですか?」
「‥‥まっ、まあそうだな。死んで現実味も何も無いと思うけどな」
 またウィスキーを飲む。もともとあまり飲めないのだが、こんなふざけた情況で飲まないわけにはいかなかった。
「ふふっ、冗談が言えれば問題ありませんね。で、ですね。話を進めていいですか? 私が話したい事は更にその先にあるのです」
「どうぞ」
「飲み込みがお早い。あなた、自分が何故刺されたのか分かっていますよね?」
「不倫したからだよ」
「そうです。しかも、相手は奥さんの妹さん。奥さんが怒るのも首肯けます。でも、あなたも不運だったと言うべきでしょう。何故なら、あなたは基本的に完全な被害者だからです」
「? ‥‥言ってる意味がよく分からないんだが」
「つまり、刺した奥さんも悪いのですが、あなたと不倫関係にあった妹さんも悪いのですよ」
「向日葵が? 何で?」
「何でってあなた、覚えてないんですか? 不倫を持ち掛けてきたのは妹さんの方からじゃないですか」
「‥‥そうだったっけ?」
 ジャックはわざとらしく天井を見上げ、大きくため息をつく。誠は何だか嫌な気分だったが、正直、本当に覚えていない。今覚えているのは、すみれとはまた違った、向日葵の瑞々しい体の感覚だけだった。
「妹さんは、自分のお姉さんの旦那さんだと知っていて、あなたを誘ったのです。まあ、詳しい事は後で話しますが、今はお姉さんと妹さん。そのどちらもが悪い事をした、という事だけ分かってください」
「‥‥ああっ、分かった。それで?」
「それでですね。あなたには一つの権利が与えられています。あなたは完全な被害者なのですからね。その権利とは、お姉さんと妹さん、そのどちらかを一緒にあの世に道連れにする事の出来る権利です」
「道連れにする‥‥権利だって?」
 その言葉を聞いても、誠はピンと来なかった。ジャックは胸元から煙草とジッポライターを取り出し、一本くわえると火をつけた。
「そうです。我々には死者を生き返らせるという事は出来ません。どんな場合でもです。しかし、その逆は可能です。つまり、生きている人間を我々の手で殺す事は可能なわけです」
「‥‥」
「あなたは悪くない。妹さんが誘わなければ、奥さんに刺さなければ、あなたが死ぬという事は無かった。しかし、死んでしまったからにはあの世に行かなくてはならない。そこで、そんなあなたに復讐の権利が与えられたわけです」
「‥‥」
「人間とは恐ろしい生き物でしてね。恨みを持ったまま死ぬと、悪霊となってこの世に残ってしまうんですよ。それを避ける為に我々は一つの権利を認めました。それが道連れの権利です」
「道連れ‥‥」
「そうです。この世で一番恨んでいる者を一人、殺す事が出来るのです。あなたの場合、かなり理不尽な理由で殺されました。ので、その権利が与えられたのです」
「つまり、すみれか向日葵。どちらかを殺す事が出来ると?」
「その通りです。どちらにするかはあたなの自由で構いません。勿論、あなたが直接手を下す事はありません。交通事故か何かに見せかけますから」
 そこまで言って、ジャックは空になったグラスを叩いた。バーテンが再びカルーアミルクを注ぐ。しかし、その様子を誠は見ていなかった。
 どちらを殺す? 何を言っているんだ、こいつは。そんな事、俺に出来るわけないじゃないか。俺は今まで普通に生きてきたんだ。確かに死んだのはショックだが、だからと言って別の誰かを殺せなんて。そんな事出来るわけがない。
「ふふっ、迷っているようですね。どちらを殺すか」
「違う! 俺にはそんな事出来ないと思っていたんだ」
「出来ない? 何故ですか?」
「何故って、俺は普通の人間だぞ。殺人なんかどんな情況でも許されない世界で生きてきたんだ。それが突然誰かを殺せますなんて言われても‥‥」
「はいはい。その気持ちはよく分かります。最初は誰でもそう言うんですよ。でもね、しばらくするとその気持ちも変わってきますよ」
「‥‥変わるものか」
「変わりますよ。何と言っても、あなたはただの人間なのですから。マスター、例の物を」
 ジャックはテーブルをコンコンと叩く。バーテンは小さく首肯くと、酒の並べられている棚から一つの小さな鏡を取り出した。手鏡のように小さく、古そうだったが、鏡の表面は新品同然のように美しかった。
「鏡?」
「そうです。これはこの世を映し出す鏡です。今から、ここにすみれさんと向日葵さんの真実を映し出しましょう」
「‥‥真実」
「そうです、真実です。何故、向日葵さんがあなたを誘惑し、すみれさんがあなたを刺したのか。そこにはあなたの知らない事情があったのです。その全てを見た後でも、あなたはまだ殺す事など出来ないと言えますかな?」
 ジャックは静かに笑い、そしてまたカルーアミルクを飲んだ。誠はジャックから煙草を引ったくった。ジャックはジッポライターに火をつけると、誠の口元に持っていった。


「全ての始まりはあなたとすみれさんの結婚です。あなたとすみれさんが出会ったのは二年前。そして、結婚したのは今から一年前。でしたよね?」
「ああっ、そうだ」
 二人の目の前に置かれた鏡がぼんやりと別の世界を映し出す。そこには、二年前のある風景が映し出されていた。
「‥‥見覚えのある風景だ」
「それはそうです。この鏡はどんな過去の映像も見る事が出来るのですから」
 鏡はとある会社の一室を映し出していた。そこはよく知っている。そこは誠が勤めていた会社だったのだから。
 今、鏡の中に映し出されている時間は夜のようだ。室内には誠とすみれしかいない。他の人間は皆帰ってしまっていないようだ。誠の記憶が鮮やかに蘇る。この光景はあの時の光景だ。
 誠は書類をカバンの中に入れ、今まさに立ち上がろうとする所だった。そんな誠の後ろにすみれが立っている。紫がかった長い髪の毛に、端麗な顔立ち。二十三のわりに随分と大人びている顔だ。スーツの着ている為はっきりとは分からないが、胸はしっかり出ていたし、腰もギュッと締まっていた。
(‥‥沢田君)
 澄んだ声が鏡の中から聞こえた。
「声が出るのか?」
「勿論です。この世ではない世界は、色々な事が出来るのですよ。で、話を戻しましょう。あなたとすみれさんは勤めていた会社が同じだった事で出会いました。美しいすみれさんは社内でも人気だった。誠さん、あなたも始めはそんな彼女に思いを寄せて、それで告白出来ないでいた人の一人でしたよね」
「ああっ、この日も内心かなり緊張してたな。告白する気は無かったけど、憧れの人と二りっきりになれたんだから」
(何ですか? 真下さん)
 鏡の中の誠が振り返る。すみれは子供のようにモジモジしながら、頬を染めている。真下とはすみれの旧姓の事だ。結婚してからは沢田すみれになるのだ。
(あの‥‥これから、何か用事あるかしら?)
(えっ? いや、別に無いけど‥‥)
(じゃっ‥‥じゃあ、一緒にお酒でも飲みに行かない? 私、あまり人が多いの得意じゃないのよ。でも、二人なら好きだし、社内の人とコミュニケーションとらなくっちゃって思ってるから‥‥どうかしら?)
 辿々しい言葉だったが、それに首肯く誠もかなり辿々しい表情だった。今の誠は、それを苦笑いしながら見つめる。
「この日は、単なる偶然だと思っていたけど‥‥」
「ふふっ、偶然もまた必然ですよ。実は、彼女はあなたの事が好きだったのです。あなたと同じように、彼女もかなりの奥手だった。まあ、この光景を見ていればすぐに分かりますけどね。ただ、彼女の方が先に行動を起こした。ただ、それだけの事ですよ」
 鏡の中で、すみれと誠は楽しそうに会話をして、それから二人で部屋から出ていった。
「そうだったのか‥‥。確かに社交性のある女性じゃなかったな。飲み会とかもほとんど来なかったし。最初は男がいてそれで来ないものかと思っていたけど、そういう理由だったのか‥‥」
「そうです。そして、あなたはこれがきっかけですみれさんと付き合う事になり、一年間の交際の後結婚する事になります。そして結婚式。そこで初めてあなたは向日葵さんという女性と知り合いになるのです」
「‥‥そうだ。結婚するまで、俺は向日葵の事は知らなかった。結婚式の時に初めて会ったんだ。すみれとは随分感じの違う女性だったから、印象的だった」
 誠がそう言うと、今度は別の光景が浮かび上がってくる。そこは誠とすみれが永遠の誓いを交わした結婚式場だった。
(どうもこんにちわ。私、すみれ姉さんの妹の向日葵って言います!)
 結婚式場の待合室で、向日葵は誠に元気良く頭を下げた。すみれと違い、短く切られた髪の毛は茶色く染められ、耳には大きな金色のピアスが光っている。大人っぽいすみれと違い、向日葵はえらく子供っぽかった。しかし、露出の強いドレスをら覗く体はすみれにひけをとらない程、見事なものだった。
 タキシード姿の誠は目を見開き、目の前の少女を見る。
(えっ? 妹さん? 初耳だな)
(ごめんなさい。言った方が良かったかしら?)
 誠の隣には純白のウェディングドレスを着たすみれが立っている。すみれは頬を掻きながら、どこか恥ずかしげに言う。
(いや。別に構わなかったよ。それにしても、随分と印象が違うね。姉妹には思えないよ)
(私、まだ大学生ですし。それに、姉さんとは性格も違うんですよ。ほら、姉さんって大人しいじゃないですか。でも、私全然落ち着き無いですから。でも、そんな姉さんがこんなに早く結婚するなんて夢にも思ってなかったです。それも、こんなに格好良いお兄さんとなんて!)
 向日葵はチョコチョコと落ち着き無く歩き回りながら言った。誠は照れ笑いを見せる。
(ははっ、大袈裟だよ)
(そんな事ありません。本当に格好良いって思います。ちょっと嫉妬しちゃいます)
(向日葵‥‥)
 すみれはどこか嫌な顔をしている。まるで向日葵を嫌悪しているかのような顔だ。向日葵はそんなすみれを無視して、コロコロと笑い続けている。
「‥‥意外な出会い。そんな言葉が似合っていました」
 ジャックが二本目の煙草に火をつけながら言う。
「‥‥ああっ」
 誠は一年前のあの時の光景を見つめながら答える。あの時は単純に可愛い子だな、としか思っていなかった。結婚後も時たま家に来ては食事をして帰る。そんな近すぎず、離れすぎずの関係が続いていた。
 それが、あんな事になるなんて夢にも思っていなかった。一体何がどうなって、あんな事になってしまったのだろう。
「すみれさんと向日葵さんの仲は決して良いものではありませんでした。それは、あなたも感じていたんじゃないですか?」
「そう言えば、あまり話している所を見た事が無かったな」
 次に、鏡は誠が結婚と同時に購入したマンションの一部屋を映し出した。その日はどうやら向日葵が遊びに来ているらしく、居間のテーブルの上にはいつもより少し豪華な食事が並んでいる。そして、それを取り囲むように向日葵、誠、すみれの順に並んでいる。
(向日葵ちゃんは、結婚とか考えてないの?)
 サラダに手をのばしながら、誠が向日葵に聞く。
(だって私まだ大学生ですよ。卒業出来るかだってまだ分からないのに結婚だなんて)
(でも、可愛いんだから、彼氏とかはいるんでしょ?)
(いる事はいますけどね。でも、誠さんに比べると全然堕落してる奴ですから)
 向日葵はいつものようにケラケラと笑いながら答える。すみれはその様子を黙って遠巻きに見ているだけだ。決して話し掛けようとしない。そんなすみれの様子にまったく気づかない誠は、苦笑いする。
(結婚式の時もそうだったけど、誉めすぎだよ)
(そうですか? そんな事無いと思いますよ。自分で自分の良さが分かってないだけですよ。本当に姉さんが羨ましい‥‥)
(‥‥あなたにも、きっといい人が出来るわよ)
 ようやく、すみれが口を開いた。しかし、それはごく当たり前な、言い方を変えればとても姉妹の言葉のようには思えなかった。
「この時気づくべきだったな。二人の仲が悪いって」
「それはなかなか難しい事ですよ。それに、この様子だけでは、向日葵がすみれさんに対して冗談ではない嫉妬心があった事など、分かれと言う方が無理です」
 ジャックがそう言うと、鏡の中の風景がグラリと揺らいだ。そして、次の瞬間には何もかも消えて、またただの鏡に戻ってしまった。
「さて、話はいったんここで終わりです。では、次の場面に行きましょう。ここからは、あなたの知らない世界になります」
「‥‥知らない世界?」
 誠の背筋がぞくりとする。一体、その知らない世界とは一体どんな事なのか‥‥。
「そうです。あなたが知る事の無かった真実の時間です。何故、向日葵さんがあなたに手を出したのか。そして、すみれさんがあなたを刺したのか。そこを語りましょう」
「‥‥」
 誠の持つ煙草の灰が、ポトリと落ちた。


次のページへ    ジャンルへ戻る